日本代表とワールドカップ 〜その1 ドーハの悲劇の8年前から〜

 

 

「国立競技場のこの青空は果たしてメキシコへと続いているのでしょうか?」

 

NHKの山本アナが言った言葉。時は1985年。場所はもちろん国立競技場だった。

「ドーハの悲劇」の8年前、ワールドカップへの扉が見えたことが一度だけあった。

それがこの時だった。

韓国とのホーム&アウェイでの戦いに勝利すれば1986メキシコで開かれるワールドカップの出場権を手に出来た。

そのホームでの第一戦。生中継の時にテレビから流れたのが冒頭の言葉だった。

この時の日本にはとにかく勢いがあり、なおかつ運も味方してくれていた。

特に韓国戦の前の試合、当時は難敵だった北朝鮮との雨中での試合は忘れられない。

当時はグラウンドも悪く、しかも激しい雨ともなれば最悪のコンディション。

ただボールを蹴りあうだけで、得点の予感もないまま試合は過ぎていったが、

ふと誰に合わせるわけでもなく蹴ったロングボールが、相手ゴール前の水溜りでピタリと止まった。

そのボールに一番早く触れたのは、当時日本代表のエースだった原(元レッズ監督、現FC東京監督)だった。

彼は難なく、相手ゴールに蹴りこみ、日本は1−0で勝利したのだった。

当時は韓国はもちろん強かったが、北朝鮮や東南アジアのチームにも簡単には勝てない状況だったから

ここまで勝ち進むのはよほどの勢いと運がなければ難しかった。

その上でさらに韓国に勝たねばならない…これがどれほど大変なことであったか…

ワールドカップまでの道のりはなんて遠いのだろう…というのが当時の思いだった。

 

韓国との国立でのホームゲーム第一戦は力の差を見せつけられた思いだった。

日本は2点ビハインドから木村和司がFKから1点返すのがやっとだった。

だが、この1点は後々にまで「伝説のFK」とまで言われた、すばらしいゴールだった。

「日本中の想いがボールに乗り移ったようだった」と木村は後にはっきりと証言している。

セットプレイからでしか得点できなかったが、この1点は後に日本とワールドカップとを繋げる架け橋だったことは間違いない。

そしてスコアこそ「1−2」と僅差であるが、韓国チームとの力の差は歴然で

この試合を見て、川淵三郎氏はサッカーのプロ化なしには日本サッカーの発展はないと確信、Jリーグ発足の発端となったと言われる。

ワールドカップの扉を開くにはまだまだ時期尚早だったが、扉を初めて見ることはできた、ということだったのだろう。

 

8年後の1993年。前年アジアカップを初めて手にした日本代表はJリーグ開幕を控えた時期に

1994年ワールドカップ・アメリカ大会の一次予選を勝ち抜いておかねばならなかった。

Jリーグ開幕を盛り上げるためにも最終予選への勝ち進みを決めておくことは義務であったといってよかった。

この一次予選のグループには苦手な中東の「UAE」と難敵「タイ」がいた。

試合形式は変則で日本ラウンドとUAEラウンドで、スリランカとバングラデシュを加えた5カ国が総当りで戦う方式だった。

日本ラウンドでの日本の初戦の相手はタイだった。

タイはテクニシャンが多く、国内ではサッカー人気はかなり高く、ピヤポンという日本でもちょっと知られたスター選手もいる。

それにどちらかというとそれまでの日本はタイを苦手にしており、予選第1戦としてはイヤな相手だった。

 

長年、日本代表の試合を見ているが、今日まで「彼こそストライカーだ」と思った選手は2人しかいない。

ひとりは釜本、そしてもうひとりはKAZUである。

この頃のKAZUはまさしく日本のストライカーだった。なんと頼もしい選手がいたものか。

難しいタイとの初戦、ガチガチに堅くなった日本代表を救ったのはストライカーKAZUだった。

そしてシュートを決めたKAZUへボールを送ったのは福田だったが、ボールを出した時、彼はKAZUに背中を向けていた。

試合後のコメントで、福田は「KAZUが後ろを走っているような気がした」と言い、

KAZUは「福田が後ろにパスするような気がしたので走った。」と言った。

今までの日本代表でこんなシーン見たことなかった。

見る者の予想できないシーンを日本代表の試合で初めて見ることができた。

最初に見たワールドカップの世界の衝撃に近いものを見た気がした。鳥肌がたった。

 

〜以下近々続く

 

お詫び:前々回のテーマで、ドーハの悲劇を1993年11月としてしまいましたが、10月の誤りでした。ジョホールバルと混同してしまいました。

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