日本代表からJリーグ、そして浦和レッズのこと
2002年ワールドカップ開催の報を聞いた1992年には、自分のサッカー人生を決定づけた2つの出来事があった。
ひとつは韓国で行なわれたダイナスティカップでの優勝、そして広島で行なわれたアジアカップで優勝、と
アジアの中とはいえ、インターナショナルAマッチで初めて優勝、しかも連続優勝したこと。
特にアジアカップでの戦いぶりは、今までの日本にはなかった新しい何かを感じ、これからの可能性に胸ときめいた。
準決勝の中国戦では、日本代表のサッカーの試合において、「劣勢から逆転」という光景を、歴史上初めて目の当たりにした。
そして決勝では、地の利があったとはいえ、サウジアラビアというそれまで全く勝てなかった中東のチームからゴールを奪い、
見事「1−0」でアジアカップを手にした。
その土台を気付いたのは、外人としては初めて日本代表監督に就任したハンス・オフトだった。
それまでの日本のスポーツはどちらかというと精神論で語られることが多く、
やれ「根性」だ、「チームワーク」だ、という抽象的な言葉で解説されることが多かったと思う。
もちろんそれも大事ではあるが、オフトはそれまで曖昧だった言葉を
簡単な、当たり前の言葉で、論理的に戦術や技術を示した。
その言葉たち…「アイ・コンタクト」「トライアングル」「スリー・ライン」「スモール・フィールド」などは見る側にとっても目から鱗だった。
また、この大会では、個人的に、ひとりの選手が気になりだした。
彼はそれまでの日本にはなかった柔らかい技術とスピードの両方を併せ持っていた。
それが福田正博という三菱の選手で、三菱は浦和レッズというチーム名でJリーグに加わることを知った。
それまでも「足の速い」選手はいたが、彼ほどキレのある、そしてセンスとスピード感溢れるドリブルを見せてくれる選手は
国内では見たことがなかった。
しかも彼は決定力があり、三菱が日本リーグ2部に属していた時に入社し、入社1年目で得点王に輝き、1部へ復帰させていた。
ナビスコカップでレッズと対戦したアントラーズで当時現役だったジーコ現日本代表監督は
当時人気ナンバーワンだったKAZU以上に、福田の能力の高さを指摘していたのは有名な話であった。
さて1992年のもうひとつの出来事は、翌年開幕されるJリーグの前哨戦として行なわれたそのナビスコカップと
同年末に行なわれた天皇杯だった。
それらの大会に、一時期の日本リーグのしょぼい、観客のほとんどいない、盛り上がりの少ない試合はひとつもなかった。
どの試合も、欧州や南米なみの「サポーター」たちによる、すばらしい劇空間となっていた。
注目していた、「福田」のいる「浦和レッズ」はスピード感溢れる試合運びで、追いつ追われつの面白いゲームをしていた。
特に天皇杯の準決勝で見せた、先輩格のクラブチーム、「ヴェルディ」との白熱したシーソーゲームは
このチームを好きになる大きな理由のひとつとなった。
またちょうどその頃に「埼玉」に引越しをしたことは、このチームに対して愛着を感じるのに十分に出来事だった。
ちなみに現在、浦和レッズの監督をオフトがやっていることにも、運命的な何かを感じずにはいられない。
とにもかくにもJリーグ・スタートにあわせて、自分の贔屓チームは勝手に決まっていったといってよかった。
そしてJリーグ1.2年目でのダントツの最下位、「Jリーグのお荷物」とまで言われた成績は
多くのサポーターと同様、思い入れを深めるには十分の要素だったに違いない。
それにしても、これだけ数多くの「一喜一憂」をさせてくれるチームはないのではないか。
世界中捜したって、レッズというチームほど「強いんだか弱いんだかわからない」チームはないだろう。
弱かったからこそ、すばらしい応援をしようとしたすばらしいサポーターが生まれ、
そのすばらしいサポーターに惹かれ、サポーターがサポーターを呼んでいったといえるのではないだろうか。
1992年という年は翌年に控えた開幕に向け盛り上がるJリーグと
ワールドカップ・アメリカ大会の予選を控え、手ごたえを感じ始めた日本代表に
日本サッカー界にとって、サッカー・ファンにとって、大きな期待感を持ち始めた年だった。
そして私にとっても、一度離れかけた日本サッカーへの想いを再び熱く感じ出した、とても大事な年であった。
〜以下そのうち続く