ワールドカップへの想い 〜その1 出会い〜
やはりサッカーと言えばワールドカップから始めないとならない…
確か1992年の春のことだったと思う。
その時勤めていた会社の、とある人から「2002年のワールドカップは日本で開催されそうだ」と聞いた。
ワールドカップに限らず、世界的なスポーツ大会が大規模化したことによる経済上の理由もあるだろうし、
当時FIFA会長で、しかも絶対的な存在だったアベランジェが親日家だったことも根拠になっていたろう。
しかし20〜30年前のワールドカップと日本のサッカーを知る者にとって
日本でのワールドカップ開催なんて、まさに「夢のような話」であった。
私が初めてワールドカップを知ったのは1970年のメキシコ大会であった。
その頃の日本はちょっとしたサッカー・ブームになっていて、
1968年のオリンピックで日本が釜本・杉山らを擁し、銅メダルを獲得したことがきっかけで、
当時の日本リーグもスター選手などもいたし、試合も客は入っていた。
それでもワールドカップともなると生中継はおろか、試合結果も新聞のスポーツ欄の隅っこに載る程度だった。
試合が見れたのは伝説の「ダイヤモンド・サッカー」という番組で、岡野俊一郎氏が解説をしていた。
その番組で見たワールドカップは「日本のサッカー」とは全く違うスポーツに見えた。
ブラジルのペレは見る者の全く予想できない動きで一瞬何が起こったかわからないという状況を作り出した。
そしてファイナルでペレのパスを受けて豪快なシュートを決めたカルロス・アルベルトが、
ディフェンダーの選手であったことには「ディフェンスは守る人」と信じていた当時としてはかなり驚かされた。
またそのペレは「ヘッディング・シュートはこうすれば決まる!」を教科書どおりにやって見せてくれたにもかかわらず、
イングランドのGKゴードン・バンクスは難なくそのシュートをはじいて見せた。
そのイングランドは前回チャンピオンだったが、キャプテンであるボビー・ムーアはブラジルびいきのメキシコの街中で、
何故か「盗み」の濡れ衣を着せられ逮捕された。
イングランドはそれでも王者らしく、次の試合で強敵西ドイツから2点を先制したものの
「ゲルマン魂」なるものの前に、後半残りわずかに同点に追いつかれ、
最後は、いまだにこの人を超えるストライカーはいないと断言できる、大会得点王ゲルト・ミューラーによって試合を決められた。
西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーは、当時サッカー部顧問の先生が絶対やってはいけないと口をすっぱくして言っていた、
「ディフェンスラインでのボール回し」を当たり前のようにやり、
時には相手チームの選手の頭越しに浮かせてパスを通して見せた。
そして彼は次の準決勝の相手イタリアチームからタックルを受け、肩を脱臼したにも関わらずプレーを続けた。
しかし身体のバランスがうまくとれず、土壇場で目覚めたイタリアのエース、ジャンニ・リベラに決勝点を奪われた。
最初に見たワールドカップは一言でいえばスポーツというよりも「映画」の感覚に近かった。
芸術であり、物語であり、感動も驚きもクライマックスもエンディングもある壮絶な映像の世界。
それが私にとってのワールドカップとの出会いだった。
そんなワールドカップが日本で開催される…??
到底実感できるようなものではなく、現実味のないものだったが、
そのワールドカップと日本のサッカーが急速に近づいたのは、最初に日本開催の噂を聞いた翌年、
1993年11月アメリカ大会のアジア最終予選、いわゆる「ドーハの悲劇」だった。
〜以下そのうち続く